2007年6月15日金曜日

歴史的な概観

歴史的な概観

[編集] 古代ギリシア・ローマ

古代ギリシアには、売春婦が公然と存在したし、娼館もまた存在したが、男娼を売り物とする娼館は公然とは存在していなかった。ただし、個人レベルでの男娼は存在し、また神殿売春とも関連して、古代ローマやオリエント世界にも共通するが、聖なる神殿娼婦が存在する一方で、神殿男娼も存在した。

古代ローマとなると、とりわけ帝政時代の爛熟期には、文化のシュンクレティズムが生じると共に、様々な風俗や性的慣習なども入り込み、娼館は、客の多様で倒錯的な性的嗜好に対応するため、様々な年齢の娼婦を置くと同時に、同じように多様な年齢の男娼も置いた。

[編集] インド

インドにおいては、『カーマ・スートラ』が男性同士の性愛での快楽の技術を詳細に記述しているように、同性愛行為は異常なことではなく、奴隷階級の者が、娼婦や男娼として売春に従事させられることは珍しいことではなかった。

[編集] アラブ・ペルシア

アラブにおいては、酒を飲むことも、男色も宗教上の禁忌であったが、実情として、飲酒を賛美する詩人の詩が広く流布し、また男色相手の稚児や美青年を置いた酒店が存在し、酒と男娼を同時に提供していた。カリフのなかには、中国の皇帝と同様に、美青年や美男を寵愛する者が存在し、彼らは寵臣となって大きな権力を持つこともあった。→イスラーム世界の少年愛を参照。

[編集] 西欧

西欧では、中世においては娼婦を置いた娼館が公然と存在したが、男娼館はそれほど公然とはしていなかった。しかし、ルネッサンスから近世にかけると、イタリアの自由都市においては、多数の男娼が外国人の客を迎え、豪華な男娼館も存在した。

近代以降になると、ロンドンやパリなどの大都市では、同性愛者の需要に応えるべく、男娼のネットワークができ、男娼を摘発しようとする警察とネットワーク組織のあいだで隠然としたやりとりが行われた。しかし、危険を冒すことなく男娼を手に入れたければ、南の国イタリアが、外国人を歓迎して男娼を用意していた。その中には幼い少年もおり、去勢して中性的な容姿の男娼をつくることが行われた。

[編集] 日本

日本においては、古くから歌や踊りを披露する芸人が、売春に従事し、男娼もまた存在した。寺院の稚児や、武士のあいだの男色の相手は、売春ではないが、その周縁に、春をひさぐ者が存在した。人身売買が公然と存在し、事実上の奴隷制が存在した中世には、売春のための稚児の少年を抱えた親方が、客に少年を一夜売ることで、利益を挙げる商売も存在した。

風俗の紊乱を避けるため、歌舞伎における女性俳優の出演を禁じた結果、男が女役を演じる野郎歌舞伎が興隆し、歌舞伎芸人は、若い者も年長の者も、総じて、客の男色の要望に応えて身を売った。また、江戸の吉原を中心に、何種類もの形態で遊女が登場したように、男娼の世界においても、陰間茶屋の高級色子から、地方まわりの男娼芸人に至るまで、多様な姿で売春が展開していた。その多くは12歳で水揚げ(客を取り始める)をし、19歳くらいまで客を取り続ける者が多かった。20代後半になっても客を取っている男娼もいたが、「大釜」などと言われ嘲笑の対象となった。

男娼としては、なよやかでほっそりとした小柄な少年が好まれ、幼少期から男娼として育てられる少年もいた。彼らは体臭の元となるような食物はいっさい摂らず、常に口と身体を清潔に保つように心がけた。男の相手をすることが多かったが、御殿女中などの女を相手にすることもあったと伝えられている。

日本では男娼という言葉は戦後小説「男娼の森」などをきっかけに広がった。女装して客を取る彼らの風俗が、同性愛者のステレオタイプになった。現在でも、男娼は少なからずいるが、街角に立って客を待つ男娼がほぼいなくなったこともあって、男娼という言葉は戦後間もなくに比べるとあまり認知されなくなってきている。近年の男娼は、いわゆるゲイバーをはじめとする飲食接客業の従事者が売春をしたり、電話やインターネットで客集めをすることが多い。

現代でも、児童虐待ゆえの家出などにより、十代はじめの早いうちから売春をするものもおり、男娼の中には11歳から14歳程度の少年が少なくないことから、犯罪性が強く、アンダーグラウンドな組織と結びつくことがしばしばある。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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